私の日本語教師物語
尾形 文
「学校の先生になったら? 普通の学校の先生でもいいけど、僻地の学校の先生が合っているような気がする。一生懸命教える先生じゃなくて、おもしろい先生になりそうな気がする。」
私が中学生の頃、母がたびたび私に言っていたことばである。
私は、本気で将来教師になりたいと思ったことはなかった。小学校のとき、教室で担任の先生が、生徒の宿題に素早く次々と丸をつけていくのを見たときなどは、「先生みたいに丸をつけたい!」と思い、友だちと先生ごっこをしたこともあった。しかし、それ以外の理由で「先生になりたい」と思ったことはなかった。
25年ほど前、専業主婦で子育て中だった私が、日本語教師という職業があることを知り、日本語教育に興味をもち、日本語教育能力検定試験に合格すべく自主勉強を始めた。その頃は、家事と育児が自分の役割であると思っていて、仕事をするという概念がまったくなかったので、日本語教師を目指すための勉強ではなかった。
そのような折、日本語教室を立ち上げてほしいという話が舞い込んだ。活動場所や一緒に活動するボランティアがとんとん拍子に整い、日本語教室を開催することとなった。その教室で活動をしていくうちに、日本語を教えることに対する興味が増していき、大学院で学ぶことにした。大学院を修了後、非常勤講師として日本語学校で教えることになった。日本語教育はマイノリティーを対象とした教育であり日本語教師もマイノリティーであると言われている。母が言った「僻地の学校」ということばを思い出した。そして、ここから、私の教師としての葛藤が始まったのだ。
日本語学校での最初の講師ミーテイングの自己紹介で、「日本語ボランティアはしていましたが、お金をもらって日本語を教えるのは初めてです。」と言った。事前に準備したことばではなかったため、「お金をもらって教えるのが教師なのか」と自分で自分のことばを振り返った。その時の私は、教師を「ボランティア=無償 VS 教師=有償」という程度にしか考えていなかったのだろう。
日本語学校の講師室や講師ミーテイングで話題に上るのはきまって「日本語ができる学習者」であり、日本語の習得が遅い学習者に関しては、やる気がないとか、不まじめであるということで片づけてしまう傾向があるように感じた。私は、日本語の習得が早い学習者は学習能力が高いのであり、そのような学習者には教師は必要ではないと思っていた。そして、習得が遅い学習者に気を配った授業をしようとしたのだが、どうも思うような効果が得られず、「教師の力ってなんなのだろう。教師って、必要?」と考えるようになった。
また、学習者からの授業に関する要望があるにもかかわらず、現行の授業を変えようとしない教師たちがいた。彼らが「日本語教師養成講座で教わったから、この方法がいいんだ。」と言うのを聞いて、「養成講座で教えられたからそうするというのは、何かが違う。」と思った。教師とは何かと迷い続けていたところだったので、自分の考えを整理するためにも、主任教師に勉強会を提案した。ところが、勉強会に参加したのは、主任教師と私のほかには、一人の教師だけだった。「肝心の」教師たちは誰一人として参加しなかった。
私は、養成講座で教わったことをすればいいと考えている教師たちと、我々教師はどのようにすれば、やる気がない学生や習得が遅い学生の助けになれるのかを考えたかった。そうすることで、私自身は新たな授業展開に気づくだろうし、他の教師たちは自身の成長には省察が必要であることに気づくだろうと思った。しかし、彼らとそのような機会を共有することはできなかった。私は、「自分で考えない教師たち」への不満が募り、日本語学校を辞めることにした。
その頃、大阪大学の青木直子先生が座長をする日本語ボランティアのための勉強会があることを知り、仲間に入れていただいた。その勉強会で、「オートノミー」という概念を知り、教える以外にも教師の役割があるということを知り、頭の霧が晴れた。
その後、大学の非常勤講師や日本語ボランティアの養成講座の講師をしてきた。大学では、留学生への日本語教育だけではなく、日本語教員養成の科目や一般教養の科目も担当している。さらに、大学以外の機関で、日本語教師たちを雇う側である日本語教育コーディネーターという新たな役割も増えた。教師としての自分を省察することと、コーディネーターとして他の教師を観ることで、以前にもまして、「教育とは何か」「教師の役割とは何か」を考えるようになった。
私はボランティア時代に、インドネシア人のアンさん(仮名)という女性に日本語支援をしたことがある。アンさんは読み書きにはあまり興味がなく、耳で聞いた日本語の意味を周りの人に聞くことを中心に日本語を習得していった。そんなアンさんがある日突然、日本語能力試験を受けたいと言った。私はそれをサポートすることになったのだが、どのレベルを受験するかでアンさんと私の意見が分かれた。アンさんは合格が確実な3級を受験したいといい、私は試験までには十分に時間があるから2級を目指すのがよいと伝えた。
結局アンさんは私の意見を受け入れ2級を勉強することになり、私は新しい語彙や文法項目などを一生懸命に教えた。しかしアンさんは、子どものことや自身の体調不良などを理由に教室を休みがちになり、問題集はなかなか進まなかった。そんな状況が3か月ほど続いたある日、私はアンさんともう一度何級を目指すかを話し合った。今度はアンさんの意向を取り入れ3級の問題集をすることにした。その後のアンさんはこれまでとは別人のように試験対策に取り組んだ。教室での学習方法も変更した。これまでは、「アンさんはこの日本語を知らないだろう」という私の判断で私が「教える」ことを中心に進めてきたが、これからは、アンさんの質問に答えることにした。アンさんは問題集をどんどん消化していった。
アンさんとの経験は、私が「オートノミー」について学び始めた頃のことである。今思えば、2級を目標に掲げたことは、私の期待をアンさんへ押しつけたものであり、日本語母語話者のボランティアという立場を利用して、アンさんが自分の意見を言えない状況を作っていたことになる。3級を目指すことに変更してからは、アンさんは着々と学習を進めていった。そのことからアンさんはすでに高いオートノミーをもっていたと考えられる。2級を勧めたときの私の行為は、アンさんがオートノミーを発揮するのを阻害していたことになる。
私は、教育とは学習者を変化させることだと思っていた。講師が授業をデザインし、知識を与えることで、人は変化すると思っていた。しかし、「オートノミー」を知ったことで、「教育」ではなく「学習」が人を変化させるのだと考えるようになった。学習者による自律的な学習こそが人を変えていく。そこでの教師の役割は、学習者オートノミーを育てることであり、学習者の全人的変化をサポートすることである。日本語教育の場合だと、教師は、学習者の日本語能力の変化だけに注目し小手先のスキルに気を取られるのではなく、目の前の学習者に注目し、どのような相互行為をしていけば学習者の学習の助けになるかが即座に選択できるよう直感を磨くことが大切になる。
私は15年ほど前、「教師が教育する」という立場から「学習者が学ぶ」という立場に自分自身のパラダイムを変えなければいけないと思った。しかし、自分の根底にある観念を変えることは容易ではない。今でも、ともすると教えることに意識が移ってしまう。そんな時、ふと、母が言ったことばとアンさんの顔が浮かんでくる。