#11
ピーテル・ブリューゲルの絵画 「バベルの塔」
両角遼平
私のバイブル的な作品は、ピーテル・ブリューゲルの「バベルの塔」という絵画です。
ブリューゲルによって、同名の絵画作品が2作(通称「大バベル」と「小バベル」)残されています。特に思い出深いのは、直接鑑賞することができた「小バベル」です。「小バベル」は2017年に東京都美術館で開催された展覧会の際に来日しました。私は当時、修士課程1年で、展覧会終了間際になんとか東京都美術館へ赴き、「バベルの塔」を鑑賞することができました。この絵画のもとになった「バベルの塔」の物語は『旧約聖書』に登場します。
以下は、「バベルの塔」のあらすじです。元々人類は同じ街に暮らす民であり、共通の言語のもと暮らしていた。人々は天に届くような塔を建設しようとした。すると、人類の思い上がった態度に怒った神が、人類の言語をバラバラにしてしまった。互いの言葉を理解できなくなったことで、人々は塔の建設を中断し、世界中に散り散りになった。
『旧約聖書』の中で、塔がどのような外観や構造をしていたのかについて、具体的な説明はありません。ブリューゲルは自身の想像で、建設途中の塔の姿を描きました。その素晴らしい想像力とそれを具現化する圧倒的な画力とに感動したのを覚えています。
私が「バベルの塔」に興味を持ったきっかけは、幼児期にあります。NHK教育テレビ(現在のEテレ)で放送されていた、山村浩二さんの「バベルの本」というアニメーション作品が強く印象に残っていました。「バベルの本」は5分ほどの短編アニメーションです。登場するのは兄弟で、2人はバスに乗ろうと急いで走っていましたが、結局バスに乗り損なってしまいます。兄弟が次のバスを待とうとバス停横のベンチに腰かけたところ、置き忘れられていた本に気づきます。その本を開くと、中から小さな塔が現れます。さらに塔の中を覗くと、そこにも小さな本が落ちています。兄弟が塔の中の小さな本を手に取ると、2人は本の中の不思議な世界に引き込まれ、様々な体験をするという物語です。幼いながらに、このアニメーション作品がもつ異様な不気味さと好奇心をくすぐられる世界観に魅了された私は、作品名にある「バベル」とは何かが気にかかっていました。
中学生になった私は、「バベルの塔」が『旧約聖書』に登場する物語であったことを知ります。また「バベルの塔」という言葉は、その物語の内容になぞらえて、「人間の思い上がり」や、「実現不可能な計画」の例えとして用いられることも知りました。私が興味を惹かれたのは、この物語がある種の寓話であり、人々の共同体形成がいかに言語に依存しているかを示している点です。
この「バベルの塔」の寓話を知った当時、私は外国にルーツをもつ生徒が1学級に3~5人程度いるような中学校に通っていました。圧倒的に日本人の生徒が多い学校でしたが、言語や文化の異なる同級生たちとともに学校生活を営んでいました。私は、言語という壁を越えて、彼らとともに学級という共同体をつくりあげることができていると思い込んでいました。
しかしある時、エクアドルにルーツをもつ同級生が、「俺は社会科を勉強する意味がない」と話してくれました。彼は、いずれエクアドルに帰るかもしれないし、そもそも自らのルーツとも関わらないから、日本の地理や歴史、政治の仕組みを勉強する意欲が湧かないという趣旨でそのような思いを話してくれました。私は社会科の学習が好きな生徒でしたが、私が社会科の学習を楽しいと思えるのは、それが自らの生まれ育った社会についての学習であり、学んだことを活かして今後この社会に関わる可能性に開かれていることを暗に感じ取っていたからなのだということに気づかされました。同じ教室で学び、言語や文化の違いはありつつも上手くやれていると思っていた同級生との間に、実は将来の社会の一員になることを「期待される子ども」と「期待されない子ども」を分け隔てる構造が教育によってもたらされているのだと突き付けられた経験でした。
私はこの経験から、「バベルの塔」を顧みる時、果たして言語の混乱のみで人々はバラバラになったのだろうかという疑いをもつようになりました。たしかに言葉が通じなくなれば、日常的な会話はもとより塔の建設作業中のコミュニケーションにも支障をきたしたことでしょう。しかし実際には、言語を媒介としてやり取りされていた価値観や歴史など、共同体を形づくる上で重要な何かについて分かり合えなくなってしまったのではないか。それこそが人々がバラバラになってしまった理由ではないかと思うようになりました。
そして、先ほどの経験を踏まえて、言語や文化の異なる他者とともに社会をつくりあげていくために、教育にはなにができるのだろうという悩みを抱くようになりました。現在は、この悩みをもつきっかけともなった社会科教育を専門分野として研究活動に取り組んでいますが、社会科教育と共同体形成の関係に対してのもやもやとした問題意識をずっと引きずり続けています。
私の研究上の問題意識に対しては、これまでも「そんな研究は余計なお世話だ」、「一生かかってもできない」といった厳しい意見をいただいてきました。そのたびに、自らの研究のもつ「思い上がり」や「実現不可能さ」に向き合わされます。ただ、現代社会は、多様な文化的背景を有し、また異なる言語をもつ人々がともに暮らす世の中をつくりあげようと歩みを進めています。それは「バベルの塔」で目指された天まで届くような塔の建設よりも困難な偉業かもしれません。ブリューゲルの「バベルの塔」という作品は、見るたびに私の問題意識の原点を思い出させてくれる作品であり、またこれからの私や社会が挑戦する先を示してくれている作品のように思っています。
紹介した人:もろずみ りょうへい