教師物語
「教える気持ちよさを手放しつつある,という話」
勝部三奈子
私は2002年に日本語教師の養成講座を出て,それからずっと日本語教師をしています。2001年,新卒で入った旅行会社を1年半で辞めて,ぶらぶらしていた私はだんだん親の目が白くなるのを横目で見ながら「そろそろなんかしないと怒られそうだな…」と思っていました。寝っ転がりながら新聞の求人欄を見て,何かないかと探していた時に目に留まったのが日本語教師の求人でした。「なんとなく向いていそうだな」とぼんやり考えて,それから色々調べたら,どうも養成講座というものがある模様。仕事もまだしたくないし,ここに行ってみようと,なけなしの貯金をはたいて通い始めたのが2002年の4月でした。
なぜ向いていると思ったかというと,大学時代ずっと塾講師のアルバイトをしていて,我ながら「私って説明するのが上手だな」と思っていたからです。相手がわからないだろうなあ,ということを相手の様子を見ながら,わかるように言葉を尽くす。そうすると目の前の生徒が問題を解けるようになる。これがとてもやりがいもあって,スカッとする作業だったため,教師に向いているのではと思ったわけです。
案の定というか,養成講座に入ってもその点については先生方の覚えもめでたかったと思います。相手の反応をよく見て,適切な,ほどほどにユーモアを交えたインターアクションをとる,未習語を使わずに適切に説明をし,練習もリズムよくさせる。そんな感じでしたから,そのままその養成講座を運営していた日本語学校の非常勤講師に採用され,そこで教え始めました。
もちろん,色々な壁にはぶつかりましたが,全てやりがいにつながりました。何よりも目の前の学生の反応がよいことが嬉しくて,授業準備に没頭しました。土日も関係なく授業準備をしていたと思います。お金もなかったから出かけられない,というのもありましたが…。授業の準備をすればするほど学生の反応はよく,そうするとこちらも楽しく,という感じでずっとどうやって教えることばかりを考えていました。お金はなくてもやりがいはある。私はこの仕事は天職だなあと思ったし,実際に学生にも卒業するときに「日本語教師は先生の天職ですよ」と手紙をもらったこともありました。同期で入った友人が「なんだか媚を売っている感じになってしまって,疲れた」と言って辞めたときも,「え〜媚を売るってそんなことしたことないわ」と思っていました。今思えば私もある意味でしっかりと媚びを売っていたわけですが…。
そんなこんなで学生からの評判もよく,そのことがまた私を悦に入らせていました。学校側からは養成講座の専任講師にならないかと言われ,次は意気揚々と日本語教師を養成する側になりました。教える対象は留学生から主に日本人になり,老若男女問わずたくさんの日本語教師を目指す人に授業をすることになりました。私はここでもまあまあうまくやっていたと思います。日本語を教えるということはどういうことか(えらそう),どうすれば相手に伝わるか,インターアクションの大切などを滔々と説明して聞かせていました。
養成講座と日本語の授業と大きく違うのは,養成講座では色々な属性の人がグループを組んで実習に取り組むことです。私はそれを監督する立場にあったわけですが,そこで起きる年齢やら性別やら職歴やらを起因としたコンフリクトをうまく捌くことに今度はやりがいを感じていきました。褒めたり宥めたりすかしたり励ましたり,とにかくみんなの気が済むように骨を折っていたと思います。これもまあまあうまくいったし,うまくマネジメントできている自分は仕事ができるなと思っていました。
こんなふうにずっと過ごしてきたわけですが,なんだかちょっと疲れてきたようにも感じました。もちろんめちゃくちゃハードワークで,体が疲れているというのもあったと思います。それでもやりがいがあるからとあまり気にせず過ごしてきましたが,付き合っていたパートナーには「なんだか仕事があんまり楽しそうじゃないなあ」と言われていました。仕事の不満を言っているわけではないのにです。「そんなことないのに。」と仕事が楽しいはずなのに,不満があるように見えることが不本意でした。
しばらくして,このパートナーとめでたく結婚することになり,関西に引っ越すからということで,関西へ来ました。仕事は当然辞めざるを得なくなりましたが,その時めちゃくちゃホッとしたことを覚えています。やりがいがある仕事だったけど,手放すことに躊躇はありませんでした。とにかく何もせずにゆっくりしようと決めました。
関西へ来てから半年,仕事をしないでダラダラするのは最高だと思いつつも,なんかしないとまた白い目で見られるなと思い,思いついたのは大学院へ入学することでした。勉強していれば誰にも文句言われないよね〜と。前に新卒で旅行会社を辞めた時と全く同じです。
こんな不純な動機でしたが,大学院へ行き,修士号を取りました。修士課程での勉強や研究は思いの外楽しく,また関西に来て初めて友人や仲間ができ,社会と再びつながった,という気持ちになりました。この研究の楽しさと,研究仲間との繋がりを断ちたくないのと,「これだけ勉強したのにもうしないなんてもったいない」という貧乏性の3つが重なり,博士課程にも進むことにしました。
修士課程の2年間は全く仕事をしませんでしたが,博士課程に入ってからは,実際の現場からは遠ざかっていたので,そろそろどこかで教えねばと思っていました。ちょうどそのおり,関西学院大学の総合政策学部で日本語の非常勤講師の募集がありました。応募してみたところ採用され,週1回だけですが学部の留学生にライティングを教える機会を得ました。前置きがめちゃくちゃ長くなりましたが,ここで私は牲川波都季さんと出会って転機を迎えることになります。
まず面接の時に牲川さんは私に,授業準備はほとんどしなくてもよいと言われました。私はそれまで日本語教師の仕事といえば授業準備だと思っていたぐらいですから,びっくりしました。牲川さんは,もちろん各人の裁量で準備するのはかまわないが,基本的にはこちらから先んじて何かを教えることはなく,学生同士が書いてきたものを通して対話して,教師もそれに加わるという授業をするのだと説明されました。そのプロセスを通して学生はレポートを完成させます,最終的に完成したレポートの内容がつまらない時は私たちの責任です,とも言われました。私は半信半疑でしたが,ちょうど母が大病を患い,その看病で実家と関西を行ったり来たりする生活が始まっていたため,準備をする時間も心の余裕もなく,本当にこちらから提示するものを全く作らずに授業に臨みました。
これって怖いことだと思いませんか。自分に引き出しがなかったら何にもコメントできないわけで,そうすると沈黙の時間が長くなるわけで,授業中は毎回,緊張が高まりました。授業での沈黙はこの頃の私にとっては恐怖でした。それまですぐに学生の答えが引き出せるのがいい授業だと思っていましたから。沈黙はたびたびありました。でも不思議と授業は成立しました。それどころかむしろこれまで万全の準備で臨んでいた授業よりも,学生が話す言葉や教室で起こる出来事をその言葉やその出来事としてちゃんと感じられるようになりました。そして私は私の引き出しから言葉を探して,学生の言葉や出来事に応えるようになりました。
思えばそれまでの私は,授業を抜かりなく,淀みなく遂行することに夢中で,授業中に学生の言葉を聞いても,起こった出来事を見ても,それを本当に学生が言ったこととしては聞いていなかったように思います。「今の学生の話をもとに,次の導入を進めていこう」とか「あ,今あそこで言い争っているから,介入してなんとかしないと」とか学生の言葉や出来事を道具にして授業を進めることばかり考えていました。常に何かモニターを通して学生や自分を俯瞰して見ているような,それができている自分に悦に入っていたことに,日本語教師を始めて15年ぐらい経ってようやく気がつきました。
もちろんこのことが悪いことだとは思っていません。必要なことだし,この点については私には何かしらの才能があると思っています(笑)。でもその状態を手放してみて分かったことが,三つあります。
一つは「私って自分や相手が気持ちよくなるために教えていたんだな。」ということです。学生にとってわかりやすい説明を考えるのも,抜かりなく授業を遂行するのも,コンフリクトを解決するのも全部,お互いが機嫌よくその場にいるためのことでした。そりゃあ学生も気持ちよくなるんだから,評判もいいわけです。でもそのことがおそらく私を疲弊させていました。相手が気分良く過ごすこと,自分が気持ちよくなることに心や頭を割くことで,安心を得る代わりに,自分がちょっとずつ削られていっていたんだと思います。辞めていった友人が「媚を売るのが嫌になった」と言っていたとき「なんだそりゃ」と思った私ですが,「相手の気を済ます」「それで自分も気持ちよくなる」と言った点では確かに私も媚を売っていました。
もう一つは「私ってひとのこと,見ているようで全く見ていなかったな。」ということです。上記にも書きましたが,学生が語る学生の言葉はその人自身から出てきたものなのに,単なる授業の遂行のためのリソースだと捉えていました。学生の言葉を本当の意味で理解をしていませんでしたし,その言葉に学生自身を見ていませんでした。それに学生は教室の中では確かに日本語を学ぶ学生であるけど,教室にいるのはほんの一瞬でそれ以外は「弟思いの兄」だったり「頼りになるバイトリーダー」だったりするのに,そのことが教室では全く見えていませんでした(一緒に飲みに行くとちゃんと見えていたんですが)。
そしてもう一つは「学生のこと,全然信頼してなかったな。」ということです。私が手を尽くしたって尽くさなくったって,学生は学生自身で,学んだり,学ばなかったりします。でも私は勝手に私が導かないと学ばないと思って,学生の学ぶ内容や方向を決めていました。でも,実際はほっといても大丈夫なことの方が多かったです。
こんなこと書くと,今はさぞや欲深くないさっぱりとした仙人のような教師になっただろうと思われるかもしれません。いいえ,まだギラギラしています。確かに私は教える気持ちよさを「少し」手放してようやく,学生を一人の独立した人間として見ることができるようになったと思います。でもやっぱり「うまく授業をする気持ちよさ」は麻薬のようで,なかなか完全には手放せません。授業がうまくいった時,学生に感謝されたりすると,やっぱり承認欲求が満たされて気持ちがいいです。ついつい,授業準備をすることで,仕事をしている気分になったり,安心を得たくなったりしてしまいますが,そのうち本当に仙人のようになって,この気持ちよさをもうちょっと手放せたらいいなと思っています。