「まずは第一言語を」は本当か?
松井 孝浩
この原稿は,2012年の10月の終わりに備忘録として,SNSの個人ページにポストした文章である。当時,私はフィリピンのセブ島にて中等教育機関への日本語教育プログラムの導入に従事していた。もう8年も前の文章ではあるけども,日本に戻ってきて読み返してみてもまだそれほど古さを感じられないこと,本誌への投稿が許されたこともあり,前後に短い文をつけてみた。
この文章を書くずいぶん前から,複言語・複文化主義という考え方については知識としては知っていた。でも,このことを抽象概念として理解するのではなく,身体感覚として感じ,それを「浴びる」という経験をしたのはセブでの生活を通してだった。
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こちらで会う人によくする質問がある。それは「あなたの第一言語は何ですか?」というものだ。この文章を読んでいるあなたなら,なんと答えるだろうか。
この質問で驚かされるのは,多言語国家であるフィリピンではフィリピノ語,英語,ビサヤ語など多様な答えが返ってくるということではない。それは,この質問に即答できる人はそれほど多くないということだ。「それは仕事で?家庭で?」「マニラにいるとき?セブにいるとき?」と逆に質問される場合もある。あるいは「ビサヤ語と英語」などと複数の言語を挙げる人もいる。
話は変わって,現在携わっている業務の関係で子どもたちに対する言語教育に関する文献を目にする機会が最近多い。これらは示唆に富み,よい刺激になることが多いのだが,一つだけ気にかかる傾向がある。そこには,日本語にせよ,それ以外の言語にせよ「まずは第一言語をきちんと習得させる必要がある」というひとつの前提があるような気がしてならない。例えば,外国にルーツを持つ子どもの場合は日本語よりもむしろ母語であるポルトガル語や中国語の習得支援を強化すべきではないかというような考え方である。
セブに居を移して2年目になるが,このような文献を目にすると「これは本当か?」と思う。日本で生まれ育った私は自分の使用言語の中核に日本語という言語が果実の種のように強固に保存されており,それ以外の英語やタイ語,ビサヤ語などといった言語はその外周や辺縁を取り囲む形で保持されているように思う。だが,この世界の全ての人がこのような形で自分が使用する言語を保持していると言えるだろうか。
この問いに対しては明らかに「そうではない」と答えることができる。「あなたの第一言語は何ですか?」という質問に即答できない人がいる以上,絶対にそうではない。ちなみにセブで日本語を学ぶ人々の中には,日本語は4番目,5番目の言語だという人がいる。例えば家庭ではビサヤ語,テレビを見るときはフィリピノ語,教会の活動に参加するときは英語,親戚の家を訪ねたときにはイロカノ語などと言ったように,生活のそれぞれの場面や出会う人によって言語を使い分けていくことは普通のことである。
よって,このような生活を送っている人々に対しては「あなたの第一言語は何ですか?」と問うこと自体に意味がない。確かに,使用している言語によって得手・不得手はあるだろう。しかし,私にとっての日本語のように場面に関わらず,また4技能の全てにおいて他の言語を超越した形で使用言語の核となっている言語というものはおそらく存在しない。
とりわけ,英語,フィリピノ語以外の地方言語は正書法が定まっていない言語も存在し,無文字社会の残滓を色濃く残すものもある。これらの地方言語は「声として言語」として家庭内では優勢であっても,社会的・経済的地位の上昇をめざすうえではやはり英語やフィリピノ語での「書かれた言語」としての能力が要求される。したがって,家庭内で話される言語は地方言語であっても,読み書きはもっぱら英語などの他言語でというように複数言語を操る上で技能間における「ねじれ」が起こっている場合もある。言うまでもなく家族に対して使う言語と職場で使う言語が異なるというケースは珍しいことではない。
つまり,私が質問を投げかけているセブの人たちにとっての「私のことば」は「第一言語としての○○語」ではない。それは,話す状況,相手,あるいは話す場合なのか,書く場合なのかによって自由に変わり得る。その中で得意なことばがあったとしても,それは私の中での日本語のような「第一言語」ではない。だから,「あなたの第一言語は何ですか?」という問いに対し,それは仕事で?家庭で?」「マニラにいるとき?セブにいるとき?」といった条件を付けた上で回答を試みたり,複数の言語を挙げてみたりするである。
話が前後するが,例えば現在使用している言語Aと言語Bのどちらも一定レベルに達していない状態を「ダブルリミテッド」として「異常な」状態として捉える考え方がある。だから,「まずは第一言語を」ということになる。では,なぜ「ダブルリミテッド」が問題なのか。それは抽象的思考能力等のいわゆる「考える力」が弱くなってしまうからであるとされている。だが,このような考え方は,モノリンガルの状態が当然とされた環境の中で生きる人々が集団的に構成したものではないかと私は思う。
そうではない。いわゆる「ダブルリミテッド」と言われていたとしても,それは相手や場面によって言語を使い分けて,生活しているだけに過ぎないのではないか。両方の言語が中途半場だと考える力が弱くなるから,第一言語の習得が中途半端だとアイデンティティ形成の障害になるから。そんなものはモノリンガル世界の私たちが「人は一言語に精通していて当然」という言語教育観,「○○人として存在していて当然」という国民国家における国民アイデンティティ観を押し付けているに過ぎないのではないか。ある人々に対し「ダブルリミテッド」というラベリングをし,さらに自分たちの言語教育観,国民アイデンティティ観で押し潰そうとする前に考えなければならないことがあるのではないか。
第一言語なんかなくても,○○人でなくても人は豊かに生きていける。幸せになれる。そんな社会が確かに存在する。複数の言語を相手と場合によって使い分け,それを「私のことば」として日常を生きる人々が世界にはたくさんいる。
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日本に戻ってきてから早いものでもう6年ほどが経つ。
その間,在住外国人支援の仕事や,地域日本語教育の基盤を整備する仕事をする際に,さまざまな日本語教育の現場を見た。そこで感じたことは,「複数の言語を相手と場合によって使い分け,それを「私のことば」として日常を生きる人々」が,日本に移り住んできた途端に,言語的には圧倒的な弱者として社会の周辺に追いやられてしまうという過酷な状況だった。
もしかしたら,「圧倒的な弱者として社会の周辺に追いやられてしまう」という認識自体がモノリンガル的な偏狭な視点に基づいたものかもしれない。そう思いつつも日本語ができない,特に読み書きができないということは,人々を非常に不利な立場に追いやってしまうということは間違いないだろうと思う。特に,ある程度の年齢で日本に移り住んできた人にとっては,この読み書きができないことによる分断と疎外の溝を埋めていくことは絶望的に難しい。それでも,そのような人たちが少しでも複数の言語を操ることの豊かさ,素晴らしさ,そして自分らしさを発揮して生きられる日本社会であるためには,一体何が必要なのだろうかと思う。
伝わりにくいからこそ複数の言語で声を上げ,身体を駆使して豊かに育まれるコミュニケーションがある。その一方で,一言で,一文だけで,時には無言であっても,伝えるべき,伝わって当然というようなコミュニケーションがあって,人は伝わらないことに辟易し,時に傷つく。伝わって当然と考えること,もしかして伝わってはいないのに,伝わっていると錯誤することの弊害というのは予想以上に大きいのではないかと思う。
こういうことを考えてみても,モノリンガル的な生活世界が,複言語的な生活世界よりも豊かで幸福であるとは決して言えないだろう。それでもモノリンガル的な生活世界は私たちを覆い尽くし,それに与しない人たちを分断し,阻害する。
では,どうするべきかと問われても,ただただ途方に暮れるばかりである。
松井 孝浩(まつい たかひろ)