教師物語
「教師を生きる」私の物語
大河内瞳
「食事中は背筋を伸ばさんね」
「箸の持ち方はこうたい」
教師物語を書こうと思ってふりかえったとき、はじめに浮かんだのは、母の姿であった。私の母は常識やマナーといったものに厳しい人だった。私は、彼女が考える常識の中で、正しさとは何かを習得していった。そして、長い間、彼女の正しさが私にとっての正しさであった。
私が日本語教師という道を歩み始めたのは、タイの大学からである。寄り道の多い私なので、5年間大学に通い、さらに日本語教師養成講座に通って、それが終わった翌年のことだ。まだまだ20代前半だったが、タイでは教師というだけで、尊敬される対象となる。学生たちは、ワイ(≒合掌)をして、挨拶をしていく。ワイクルーという先生の日には、ジャスミンで作った花飾りを持ってきてくれる。そんなタイの慣習は、私の教師としての鎧をより頑丈なものにしていった。
教師としての鎧?!
当時の私にとって、教師とは「正しい」人であった。ここで言う「正しい」とは、私が子どもの頃から身につけてきた正しさだ。私自身、その正しさから外れずに生きてきたわけではないが、教師は正しいことが何かを伝えられる。そして、その正しさに学習者を導いてあげることができる。暗黙のうちに私はそう思い込んでいた。授業に遅刻してはいけない、課題は期日までに出さなければならない、身だしなみに気をつけなければならない… 私の中に、たくさんの「なければならない」が存在していた。
今でもふと思い出すタイでの出来事がある。
ある学期末のこと。私が担当していた授業を履修している学生の中に、5年生の学生がいた。履修登録はしているが、彼は授業にほとんど出ていなかった。しかしすでに5年生。卒業するための単位が不足していて、私の授業の単位が必要だと、タイ人の先生を通して知った。そのことを教えてくれたタイ人の先生によれば、彼は家庭で問題を抱えているし、経済的な問題もあるという。だから、今年度卒業させてあげたほうがいいと、その先生は言った。だが、私は受け入れることができなかった。家庭の事情があって授業に出席できなかったとしても、単位が必要なのであれば、私のところにそのことを言いに来るべきではないか。そしたら、特別な課題等、一緒に相談できるのに。私はそう考えていた。ちょうどその学期、他の授業にも5年生の学生がいた。彼女は日本語が副専攻だったが、途中で日本語学習に挫折したらしく、日本語の授業の単位が足りていなかった。そのため5年生になっても私の授業を履修しなければならなかった。彼女は周りの学生が驚くほど熱心に授業を受け、好成績で単位を修得した。私よりも年上の彼女の努力に、私は心から敬意を表した。だからこそ、何もしないで単位を取ろうとするもう一人の学生を受け入れることができなかった。結局、私は彼を不合格とした。
タイには暑いかとても暑いかの二つの季節しかないとタイ人の知り合いが言っていたが、そんな暑さの中、私は毎日ストッキングをはき続けていた。今ふりかえると、これは私にとって教師になるための一つの儀式だったのではないかと思う。自分の中の正しさを貫くのは、なかなかしんどい。当時の私は学生に対して正しくあろうと必死だった。だからこそ、正しくあるために、教師という鎧を着るために、儀式が必要だったのではないか。
鎧を着た生活は長くは続けられない。その他にもいろんな出来事が重なって、私は2年で日本に戻り、大学院に進学することにした。
大学院で研究を始めるための最初の作業は、タイでの経験を理解することであった。私は同僚や学生との関係、また自分にとっての母の存在など、これまでの経験をふりかえって書き留めていった。ありがたいことに、私が通っていた大学院には、自分の経験を語り合うことができる環境が整っていた。授業内外でゼミの人たちとたくさん話をした。この環境があったおかげで、私は少しずつ自分が鎧を着ていたことに気づき、それらの装具を少しずつ脱いでいくことができた。
もう一つ、大きな出来事があった。それは母と子育てについて話をしたことだ。帰省したときや出かけたときなど、ちょっとしたときに、母から子育てをしていたときの話を聞く機会があった。私にとって彼女は、いつも正しい人であった。彼女の正しさは、子である私をときに息苦しくもした。しかし、彼女は彼女で闘っていたのである。母が結婚した当時は、女が嫁として夫の家に嫁ぐ時代であった。母も例外ではなく、嫁として嫁ぎ、夫(私の父)の母と妹たちと同居をした。テレビを見ている妹たちの横で、母は家事をした。つわりがひどくて何も食べられないときでも、食事の準備をするのは母の仕事だった。そのような状況下で、母は姑や小姑たちから子育てについて文句を言われないように必死だったという。懸命に闘っている彼女の姿が目に浮かんだ。自分の中の正しさにすがることで、彼女は人生を乗り越えてきた。彼女自身が鎧を着て生きてきたのだった。
大学進学で実家を出るまで、同じ家で多くの時間を母とともにした。だが、私は、彼女がこんなふうに闘ってきたことを知らなかった。私に見えていた母とは違う母があった。私はこれまでとは違う母の姿を再構築していくことになった。そして、この経験は、自分には見えていない部分が他者にはあり、自分の中の合理性とは違う合理性で他者は生きていることを、私に気づかせてくれる経験となった。
この他者の合理性が自分にとって腑に落ちるものになる上で、大学院での経験も重要だった。大学院で私は質的研究について学び、修士のときはNarrative Inquiryを、博士のときはエスノグラフィ的ケース・スタディを採用して、論文を書いた。私にとって質的研究とは、自分の常識や枠組みをエポケーして、感情や感覚がからみついた他者の経験を、他者とともに探求する、つかみとろうとする方法である。やや乱暴な言い方かもしれないが、他者の合理性をつかむ方法と言い換えてもいいと思う。
ここで改めてタイでの自分をふりかえってみると、私は自分の中の合理性だけで物事を判断していて、他者の合理性、学生や同僚たちの合理性を配慮していなかったことに気づかされる。自分に理屈があるように、相手にだって理屈はある。そんな当たり前のことに気づくのに、私は多くの時間を要した。
今の私の軸になっているのは、この他者の合理性である。ただ、軸になっているからといって、いつも他者の合理性に思いをめぐらすことができるわけではない。2023年度、非常勤先で初めて100人を超える学生を相手に授業をした。積極的に授業に取り組む学生がいる一方で、私が隣に行っても平気でゲームをし続けている学生がいた。私の授業がおもしろくなくてゲームをしていただけなのかもしれないが、そこにはどんな合理性があるのだろうか。また、明日の課外授業に行くと言っていた学生が、翌日待ち合わせ場所に姿を見せず、何の連絡もしてこないというのは、どう理解したらいいのだろうか。
自然習得をした正しさはしぶとく私の中に居座っている。他者の合理性と正しさとの間で、今も葛藤することは少なくない。おそらくこれからもこんなふうに、学生や同僚と関わりながら、教師を、研究者を、大河内瞳を生きていくのかな。