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第15回

判断力と決定力を持つ大人

お客様:フィシッフ キュッヒェ店主 二宮大輔さん=グラフィックデザイナー 仁木順平さん

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モヤモヤ。ザワザワ。どよ〜ん。いつもそんな後味を読者に残す、吉田修一の小説。『悪人』の下巻を読み終わったマキコママは、はーっとため息をつく。この主人公は本当に悪人なんだろうか…。小説の中に悪人は他にもいる。小説のタイトル「悪人」は誰のことなのか? 「モヤッ、ザワッ、どよ〜ん」なのだが吉田小説はやめられない。人間の描き方がエグくてグロくてのめりこむ。はーっとまたため息をつく。そこへ…。

チーーーン。

二宮:どうも。

 銀縁メガネをしっくりと顔に馴染ませ、いい感じに脱力した雰囲気を漂わせ、40代半ばの男性がエレベーターから現れた。店の空気が緩み「モヤッ、ザワッ、どよ〜ん」は消えた。

ママ:あら二宮さん! いらっしゃい。お店はもう終わったんですか?
二宮:はい、もう閉めてきました。

 ママは二宮さんの前にサッポロ黒ラベルの瓶とグラスを置く。

二宮:あ、これどうぞ。差し上げます。
ママ: え!

 二宮さんがママにプレゼントしたのは、文庫本『国宝』の上下巻である。吉田修一の新刊である。モヤッとくるかと思いきや、ママはその表紙に見とれた。

ママ:このカバー、超かっこいい!!
二宮:私が装丁したんです。
ママ:ええ!

 二宮さんは、下高井戸で「フィシッフ キュッヒェ」という居心地ばつぐんの小さなカフェを経営しつつ、フリーランスのグラフィックデザイナーとして装丁の仕事をしている。グラフィックデザイナーの二宮さんは「仁木順平」という名前を使っている。

ママ:二宮さんはなぜ装丁の仕事を始めたんですか?

二宮:私、もともと大学では工業デザインが専門だったんだけど、8ミリ映画撮ってて、それで卒業が許されるゼミにいたんですよね。で、卒業後広告デザイン会社に就職。
ママ:広告デザインの仕事してらしたのね?
二宮:90年代ってポスターとかの広告って力持ってましたね。そういう広告って、人の心を煽るっていうか、人を驚かす手法ですよね。だけど、私はそういう仕事より、本の装丁のような、なんていうか誰がやってるのかわかんない、そんな匿名的な感じが自分に向いてるって思って。日活でのアルバイトを経て、個人事務所で仕事することになりました。で、そのうち本格的にデザインの勉強がしたくなって、スイスに留学しました。英語が苦手だったので、どうせゼロから始めるならドイツ語やってみようと。
ママ:スイス? ドイツ語?
二宮:バーゼル造形芸術学校で勉強したくて、スイスの国費(政府奨学金)で行きました。
ママ:へ〜。スイスってどんな国?
二宮:ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語、そしてロマンシュ語、多言語の国です。多言語が並ぶ、そんな状況に美しさを感じたんですよね。
ママ:スイスの住み心地は、どんな感じでした?
二宮:スイスはね、実は排他的。日本とちょっと似てますね。移民はたくさん受け入れるけど、スイス人になるのは本当に大変。国民全員がエリート、みたいな。自分たちは全部持ってるし、みたいな。だけど、それを外に出さない。おもしろい国です。
ママ:スイスから帰ってきてからは?
二宮:個人事務所で働いてた時、新潮社とちょっと繋がりができて、帰国後は誘われて新潮社に入社して装幀室で仕事してました。そこに9年半いました。
ママ:なぜ、辞めたんですか?
二宮:サラリーマンになる時にね、決意したんです。会社に文句を言わない、誰かに反発や反駁をしないって。だけど、だんだん批判したくなってきた。文句を言いたくなってきた。その時、ああこれはやめ時だな、と。
ママ:それで、カフェを始めたのね。だけど、なぜカフェ?
二宮:サラリーマンで装丁してた時はね、自分の名前は表に出ないんです。ただ「新潮社装幀室」として載る。自分が手がけた装丁を作品とは思わなかった。匿名性、無名性っていうのも、私は好きだった。私の仕事の名前「仁木順平」は安部公房『砂の女』の主人公の名前だけど、小説の最後の最後に出てくるんですよ。物語の中では名前を持ってないんです。名前が無いって状況が魅力的。だけど、新潮社辞めた時、今度は主体性を持ちたいと思った。カフェを経営することは主体性なんです。
ママ:なるほど…。リスクはないのかしら。
二宮:自宅でやってるし、家賃はかからない。作ったものが余れば家族で食べればいいことだし。赤字にはなりませんよ。ほら、バブル崩壊した時に脱サラしてカフェとか飲み屋とかやり出した人っていたでしょ。私、そういう店でバイトしてたこともあって、そんな脱サラ人間の追体験したいなあって思ってたんですよ。
ママ:珍しい追体験志望だなあ。ああ、そうそう。カフェの名前が難しいですね、ドイツ語で。「フィシッフ キュッヒェ」(ママは舌を噛みそうになる)ってどういう意味なんですか?
二宮:キュッフェはキッチンって意味です。フィッシュは魚、シッフは船。フィシッフは、魚と船を合体させた私による造語。「山本山」みたいな(笑)。
ママ:パリパリの海苔、口蓋にひっついてとれない時あるよねー。
二宮:これはね、活版印刷と関係があるんです。
ママ:活版印刷と? なんで?
二宮:原稿のことを「ゲラ」っていうでしょ。なぜゲラっていうか知ってますか?
ママ:…⁈ もともとギャグマンガの編集者の間で使われてた用語で、ゲラゲラ笑う原稿が求められていたから。
二宮:…。
ママ:あ…。ビール、おかわりどうぞ。

 2本目の黒ラベルをグラスに注ぎながら二宮さんはママに説明してくれた。活版印刷は、箱に活字のパーツを並べて組んでインクで印刷する手法である。昔々は手作業であった。時々、箱の中に間違ったアルファベットやフォントが混ざることがあった。その時、ドイツ語では「やべ、ミスった!」と言うかわりに「こんなとこに魚が!」と言ったそうである。誤植=魚である。そして、箱は「ガレー(船)」と呼ばれていた。「ガレー」は日本で「ゲラ」という音に変わった。つまり、「ゲラ」は活版印刷で使われる活字の入った箱のことである。活版印刷のプロセスのちょっとしたアクシデントが、船に変な魚が紛れてると表現されていたのである。二宮さんは活版印刷に思い入れがあり、魚と船にあたるドイツ語をカフェの名前にしたのであった。

二宮:店の名前の由来、よく聞かれるんで、こうやって説明するんですよ。でもね、たいがいの人は途中でよくわからなくなって、どうでもよくなって「ふーん」て感じなんですよ。それがいいんですよ。よくわからない、よく覚えられないっていう曖昧さがいいんです。

 二宮さんはグラスを傾けながら、ふふふとにやける。面白い人だなあ、とママは思う。

ママ:ねえねえ、二宮さん、大人って何だと思います?
二宮:サラリーマンの時にね、思ったんです。たいがい年功序列で、年寄りがいい給料もらうじゃないですか。あれはどうしてだろう?って。物忘れもひどくなるし、体力もなくなって力仕事もできなくなるし。よっぽど若い人の方がパフォーマンスいいでしょう。不思議でした。で、高い給料は何のために払われるか考えた時、それは彼らの経験知による決定力や判断力だなって。勇気がいることですよね、責任も伴うでしょ、決定や判断は。それをすぐさまする、その判断がいい悪いは別にして。そういうところが大人なんだって思いますね。
ママ:決定力と判断力を持っていること、それが大人。なるほどね〜。

 二宮さんは匿名性、無名性を重視している。『国宝』のカバーの折り返しには、「仁木順平」の名前がある。

二宮:「仁木順平」を名乗ることで主体性を捨てているつもりなんです。

「よくわからない」状況に価値を見出すとともに主体性を持ってカフェを営む二宮さん。大人とは決定力と判断力を持つ存在と言ったけれど、二宮さん自身はそんな大人になりたいと思っているのかなあ、とママは思う。正解が顕在化しない「よくわからない」状況も、他者の前に現れてこその主体性も、他者と共生していくにはきっとどちらも大切なことなのだ。

スナックマキコの大人エレベーター。それは、様々な文化を育む大人が場末のスナックに語りにやって来るエレベーター。次回はどんな客が訪れ、何を語るのだろうか。乞うご期待!

※二宮さんのwebページは、こちらです!→https://fischiff.tumblr.com/

(了)

本文:東のマキコママ
​イラスト:西のマキコママ

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